昭和48年6月25日 朝の御理解



御理解第28節「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは井戸替えをするに八、九分替えて退屈して止めれば掃除は出来ぬ。それではやはり水は濁っておるようなもので、信心も途中で止めれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」

 信心辛抱と云うことが云われます。何事でもそうですけれども、取分け信心には、三代金光様のお言葉にありますように、信心には辛抱することが一番大切でございますと仰る、それである。
 そこで辛抱と云うのも、そこに喜びの感じれれる、又は楽しみの感じられる辛抱でなからなければならんと思います。
 希望もなければ楽しさもない。それでは本当の信心、只辛抱にはなりましょうけれども、信心辛抱にはならないと思うのです。
 同時に大事なことは、元気な心で信心せよと最後のところで結んでおられます。元気な心で信心すると云うことであります。
 そこで信心は素直と云うか、純粋な心と云うものが求められる訳でありますけれども、信心の喜びと云うものは自分の思うようになったから生まれて来るのではありません。信心の喜びと云うものは何処までも信心の喜びです。信ずる心、いわゆる自分の心の中に真心、いわゆる真心こそ自分で自分の心を合掌したいような心の状態が育って来るということ。次には神心、いわゆる神心その神心が強うなる。
 私が最近、ああこういう心が神心じゃろうかと思わせて頂くことは、あの段々難儀な人を、難儀な人を見ると云うと、心の状態の上に助かりを頂き切らない人、難儀な人達ですね、勿論信心のない人達もですけれども、それで私に直接関係が出来て来るような場合に、難儀な様想とか難儀な心の状態を、に触れるときに非常に悲しさを覚えるです。これが神心だと思うですね。ですからその時にいよいよ私がおかげを受けなければいけないな、いよいよ私が力を受けなければいけないなと云う心が切に起こる。その出来ないことがもどかしいのですけれども、そういう心が難儀な、最後の神心、神の心だと思うんですよ。
 だから信心に依っていよいよ神様を信じつつくるのが有難いのであり、自分が真心になって行けておる。自分で自分の心が拝みたい様な心が有難いのであり、そして今までは信心の薄い者や信心の無い者ばっかりあると云った様な見方をしとったものが、それを直接触れるときに何か知ら悲しい思いがする。もの悲しい、いよいよ私が力を受けてこの人達に分け与える以外にないなあ、云うても分からんのだから、私が力を受けてこの人達に分け与える以外にないなあ。いうても分からんのだから、私がもっと力を受ける以外ないなあと、それを与える為にです、力を受けなければならないなあと思うこと切です。
そういう心が神心、勿論その切なる心がです、ならより力を受けなければ信心が本当に出来ませんから、もどかしさを感じるのですけれども、そういう心が私は神心。
 信心に依ってそういう心が、信心、真心、神心、そういう三つの信心の心と云うものが育って来る。それが有難いと云うのです。自分の思う様におかげを受けたから有難いと云うのだったら誰だって子供がおやつを貰うようにそれは嬉しい顔を致します。有難い顔を致しますけれども、それは信心で云う本当の有難いと云う心ではない。思うようにならなければ承知が出来んと云った様な信心では、だから信心辛抱は出来ません。
 信心辛抱が只の辛抱じゃいかん。信心辛抱でなければいけない。その信心辛抱をここではだから説いてあると思うです。
 疑えば喜びの花開かず、信ずる心清ければ、 
                    心に喜びの花が咲く。  生きた神をそこに 見たてまつることが出来る。
これは私が成人に昨日書いてあげました、答なのです。
 
 疑えば喜びの花は開かない、先生はあげん言いよんなさるが本なこつじゃろうかと云うたら、もう私が今日申します信心の喜びの花は咲きません。

昨日北野からちょっと見覚えがあるなと思いましたら、椛目の時代に参っておった、それがあの上野先生の所の、へおられたところの裏におった方である。そうなんである、して現在もまた今度は期せずして今度反対の側の新道の方に移っとりますが、その丁度裏に当たるところに又移っとられるそうです。
 まあ縁ちゃ不思議なのものですね、ちゅうてから・・
 その時に上野先生のお母さんのお導きでお参りさせて頂いて自分の難儀な問題と云うのが、あの子供さん、もう取ってしまおうと云う思うちゃった自分が、それで神様にそれをお願いさせて頂いたらね、あのお伺いしてから腹を決めようと云うので、お参りしてきたのが十六、七年も前の話です。それで後子供はどうであっても今度の子供はひとつ頂きなさいよと云われて、腹決めて生まれた子供がもう高校三年生ですか、しかもそれがズバ抜けて頭がよいそうです。それだけでなくてもう大変親孝行だそうです。
 その子を見る度に早うお礼に出らきゃ、早うお礼に出らにゃで十七年振りに来なさった。気長い人がありますですね。
 それで昨日私が十二時過ぎにここに就きましたが、それまでとにかく先生にお合してお礼申し上げねばと、とにかく十七年振りお礼が昨日あった訳です。しかもそういう人は椛目から合楽にかけて沢山ありますよ。本当云うたらお参りして先生から云われたから、それが今こういうおかげになっとると、もう忘れちゃおらん。はようお礼に出らにゃはようお礼に出らにゃで十七年振りにお礼に見えた。 しかし信心がなからなければ仕方がないことですよね。信心が育ってないのですから、まあ十七年振りにでも出て来なさったから。 ところがその方が見えたら、とにかくしきりにね、しきりにこの事をお話させて頂いたんです。お話させて頂きよったら涙がこぼれてくるのです。だから結局信ずると云うことがね、信ずる心が清ければ心に喜びの花が咲くと、しかもそこに神様を見奉ることが出来る。生きた神様を見ることが出来る。そういう生き方をさせて頂くことが信心であり、だから信心辛抱が出来るのです。
 それはね、合楽と云う所は大変なとこですよと、例えて云うと、なら私共が善導寺でお導きを頂いて、善導寺そして勿体島、そして椛目、そして常持、合楽とこれはバスの停留所の現在の停留所の地名ですけれども、とてもとても私とその方との「しづ香」さんと云ったかね、あの方あなたとの縁と云うものは大変な縁なんだけれども、それが十七年振りにこうやって生きてくる訳なんだけれども、例えば合楽がここにこうなると云うことはね、もう云うならば千年も万年も前からの神定めの事であって、そういうことを成程先生の云われる通りそうであろうと、例えばその地名と云うのが善導寺と云うのは、善導 よい導きを受けて信心が段々有難くなって有難い勿体ないと云う勿体島にの過程を信心を通ってそして今日私が云う椛目、椛目とは心に花を咲かせると書いてある。その芽が出ると云う所である。
 喜びの心に喜びの花が咲く頃には、もう椛目で人がどんどん助かるようになり、その喜びをそのまま常に持ち続ける、常に持ち続けて合楽にゴールインさせて頂いておる今日、もうお只ここへ来て上野先生からあちらこちら見せて貰うてもう只驚いてしもうて、お話には聞いとったけれども、こういう立派なお教会が出来とるとはと云うてびっくりしておられました。
 ですからほう仲々合楽の先生はむごう云いなさる、こじつけが仲々うまい、と云うたら喜びの花は咲きませんよと、わたしが。
 本当に先生、あなたが云われりゃ云われる通り素晴らしいことであり、実に不思議な不思議なことですなと、そこに神様の働きを信ずるところから、合楽と云う所は大変なところだと云うことにはなって来るけど、それを只何かえらいこじつけて云う様な風にも、例えば合楽と云う地名も土地の地名も合楽のために出来ておるんだと昔から神様の昔の昔の大昔からそういう働きがここに、なら合楽の教会がそういう時期を辿らして貰うて、云うなら翻然として合楽の地に合楽の教会が出来て此処でいよいよ難儀な氏子が取次助けられてくるところの働きが始まるための神様の永い永いお苦心と云うか神様のお働きと云うものをここに表しておるのが合楽教会ですよとそんな話をしよったら涙がこぼれた、こっちの方が。
 だからそれをそう信じておることが、これは私の云うなら信心なんです。信ずる心きよければ心に喜びの花が咲く。その事だけでもむごう云わっしゃる。むごうこじつけて話さっしゃると云えばそれ迄です。疑えば喜びの花開かず、であります。
 その喜びがなからなければ信心辛抱、決して信心すりゃすぐ億万長者に成るとか、さあすぐ病気が治ると云うことでは決してないのですから、信心しよりゃ死にもせんと云うことでは決してないのですから、どういう中にあっても喜べる心が育って行くから有難いのであり、いわゆる辛抱が出来るのであり成程さあ一つがんばるぞと云うて信心辛抱に元気な心がいよいよついてくる。

 先日桜井先生の奥さんがお夢の中に頂いておられることが、もう九十九と云うことを頂く。ところがそのたった一つのところが仲々もう喜びと元気な心でそれこそ、此処を通り越さなければ百と云う神様の願いになって来ない。九十九まで例えば行っとってもです、やはり九十九であって、苦に苦が重なる難儀が重なっておるに過ぎない。此処んところをもっともっと、それこそ心の中が躍動する様な心を以ってです、信心の楽しみ、信心の有難さいわゆるそこんところを信ずる心清ければ心に喜びの花が咲く。そこには生きた神様を見奉る事が出来るところに信心の勢いと云うか元気な心が生まれて来るのです。

 昨日善導寺の原さんがお届けをなさっておられますように、難儀な問題と云うものはいつも持っておる。
 ところがです、その周辺に生き生きとした神様の働きを見たり感じたりするからです、その難儀と云うものがそういう間違いの無い神様の働きの中にあるんだと思うからです、元気が出る、喜びがある。
先日も畑に少し鶏糞を入れたいと思いよった。ところが仲々思うようにいかん。ところがその時隣のお方が以前豚を飼ってあった。そこで豚に踏ませた藁が乾燥して取ってあるからおばしゃんよかったらあんたげん畑に使うてくれんかと云われる。そういう時には本当に神様の働きを感ずるとこう云われる。先日もしその葉が沢山出来とるけん、梅が漬けたいなと思うておるところへ、隣の野菜屋のおばしゃんが、おばしゃん裏に梅がこうあばれよるけん、あんた方にいらんかとこう云わっしゃった。ならいっちょしそがあるけん頂こうかというて見げに行ったところが、もうすでに実は熟してしもうて落ちておったと云う。成程梅は一つも頂いてこなかったけれども、梅を漬けたいと思いよればそういう、例えば印でも見せて下さる事が有難いというて感動しとられます。感激しとられました。私は信心とはそれだと思うです。
 その梅の実は貰わにゃ、神様の生きた働きとは思わんと云うのじゃない。そういう例えば、そこまで働きを受けておると云うことが有難いじゃないかと自分で云っておられます。
 しその葉はある。梅が漬けたい。そこへあんた梅をちぎらんかとこう云う、もうおかげとこう思うた。
 そして行ったところが、梅はもう落ちてしもうとった。そこまではおかげと思うとったけれども、もうおかげじゃなかったばいのと云うのではなくて、そこまで神様の働きを受けておると云うことが有難い。そういうものをです、私共周辺に日々感じて行けるから信心辛抱が出来るのですよ。
 信心辛抱するから、さあ二年か三年か五年か十年かでこげん大物になったと云うことがあろう筈が無いです。この調子で行けばそれは夢にも思わなかったおかげにもなるぞと、心の中に楽しみが湧く、希望が湧く。そこに元気な心、いわゆる元気な心で信心せよと。
 一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよと云う元気な心が湧いて来るのです。
 いわゆるこの二十一節は信心辛抱の大切なこと、同時にそれを只の信心辛抱でなら何処までも信心辛抱でなからなければならないこと。その信心辛抱からは必ずそこに神の、いわゆる 信ずる心の清ければ、心に喜びの花が咲き、そこに神様を見奉ることが出来ると云うおかげを頂けるから、元気な心も自ずと湧いて来る。
 いわゆる元気な心で信心せよとは、そういうような体験が日々感じれれるから元気な心が生まれて来るんだと云うことを聞いて頂いたですね。どうぞ。